手塚先生が少年の頃通いつめた、四つ橋の大阪市
立電気科学館。ここにあったツァイスU型プラネタリウ
ムに手塚先生は夢中になったエピソードは手塚ファ
ンの皆様はよくご存知でしょう。その電気科学館に関して、とても興味深い情報を手塚治虫メーリングリストの小西さんよ
りお聞きしました。手 塚先生大好物のお菓子が朝日新聞の記事等
で紹介されていたというのです。
その名も
千成一茶の銘菓「プラネタリュー
ム」
正直に申しますと、「手塚治虫が○○を食べた」といった類いの話はあちこちであるもので、それらを
全部信じたり、「手塚治虫ゆかりの○○」として書いたり
するのはちょっと…と思っていたもので、今回のことに関しても最初、疑っておりました。もともと手塚先生の少年時代のエピソードにはフィクションが多い上
に、後から、手塚先生のことをよく知らない人が記事として書いたものとなるとウソが塗り重ねられて
信憑性の無い「手塚伝説」として人口に膾炙してしまう
ケースが多いからです。まあ、人間生きていれば1日3食×365日×生きた年数分食事をするわけ
で、ただ食べたってだけだったら、手塚先生の場合その手の
話は山のように出てくるわけでして…(^^;)
と こ ろ が
なんとなんと事実でした!手塚浩さんに銘菓「プラネタリューム」のお話をしてみたところ、以下のよ
うなメールをいただきました。
銘菓「プラネタリウム」は私も食べたことがあります。かなり高価なものだっ
たかったから電気科学館でそれを購
入したことはせいぜい数回ほどしかなかったのではないかと思います。治虫たちは小学生だったから、
母親が同行したときでなければ買えません。ただ、彼が単
独で(あるいは誰か池附の友人と一緒に?)電気科学館に行ったときにそれを一箱買って帰ってきた
(母親の依頼があったのか、それとも自分の願望だったのか
不明)ことがあったと記憶しています。彼がこのお菓子を特別に好んだという記憶や思い出はありませ
んが、既に甘いものが一般の店頭で目に付きにくくなって
いた当時、プラネタリウムを観に行けばそこで珍しいお菓子も購入できるという、ある種の満足感を味
わうことができたのではないでしょうか。
それは、7〜8cmくらいの縦長の、今で言うとクッキーに近い干菓子で、表
面には砂糖のつぶつぶがまぶしてあ
り、今から思えば、その味は洋風でもなし、和風でもなし、という中庸的なものだったような気がしま
す。「(その当時で)今どきかなりちゃんとしたお菓子」
というふうに母親が評価していたように記憶します。(そのころは、“クッキー”という呼称は私たち
は知らなかった。というよりも一般に使われてはいなかっ
た。その種のものは、みーんなビスケット。)「プラネタリウム」(または「プラネタリューム」)と
いうシャレた名前の効果もあって、「お遣い物」としても
見劣りするようなものではありませんでした。なにしろ、戦争さなかの「贅沢は敵だ!」と叫ばれた非
常時に、特に高級な菓子類になると一般庶民はそうそう口
に出来るものではありませんでした。「プラネタリウム」も、乏しい材料であれこれ工夫して、なんと
かサマになるように苦心して作り上げたのでしょうね、
きっと。ギャラクシーの図柄が印刷されたセロファンに一つ一つ包まれていて、箱入りで販売されてい
ました(一箱に10個くらいはいっていたかな?)以上、ちょっと懐かしい思い出をさぐりながら綴ってみました。
(手 塚浩氏の手紙より)
いやあ、本当にびっくりです。そして、さらに調
べたらありました!
手塚治虫 エッセイ 「懐かしのプラネタリウム」『月刊うちゅう』 1985年7月号 (大阪市立
電気科学館星の友の会発行) 。
現在入手できるバージョンでいえばマガジンハウス「手塚治虫大全1」と講談社全集「手塚治虫エッセ
イ集6(MT395)」に収録されていました。以下、引 用です。
この売店で、少しあ
とになって売り出したのは、
「プラネタリウム」というお菓子である。やや長めのクッキーに銀の砂糖粒を散らしてある。それ
がつまり星空というわけだ。ちょいと工夫をこらした何の変哲
もない菓子なのに、ぼくは毎度それを買って帰った。ぼつぼつ甘いものが不足し始めた時代だった
せいであるが、結構旨かったのである。
(手塚治虫 エッセイ 「懐かしのプラネタリウム」より)
そういうわけで、早速千成一茶さんまで行って参
りました♪
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