1928年11月3日、手塚治虫は大 阪府豊能郡豊 中町(現在の大阪府豊中市岡町)で、手塚粲(ゆたか)、文子の長男として生まれた。現在、文化の日と呼ばれるこの日 は当時の明治節(明治天皇の誕生日)で あったことから、治(おさむ)と命名された。治が生まれて2年後、同じ豊中市内の曽根寄りの地に引っ越した。そこ で、弟・浩氏、妹・美奈子氏が生まれたと 言われているが、詳細は不明である。 |
手塚の出生地が大阪府豊中市岡町であ
ることは、詳
しい本なら載っているので、最寄り駅がここであることは間違いない。しかし、その場所を特定することは現在販売され
ているような手塚関連書籍からはとうて
い不可能であろう。しかし、近くにお寺があったとの情報を得、浩氏にお尋ねしたところ、その寺は今でも現存する東光
院(萩の寺)であることがわかった。 |
出生地、大阪府豊能郡豊中町桜塚?
阪急電鉄岡町駅からさほど遠くない位置(当 時の大阪府豊能郡 豊中町、わたしは分家なので書類関係は一切手元に無く、所番地など不明)に、治虫の生家(のち、本籍地は宝塚に移 籍、その後東京に移したものと思うが、わ たしは以後も関西に住んでいたので、その辺のことは分からない)がありました。わたしもそこで生まれたのですが、思 い出す風景は、生家の、竃が置いてあっ た比較的広い土間と、阪急電鉄岡町駅の下り線側にあった引き込み線と道路との境界に設置された黒く焼いた枕木で造ら れた柵(宝塚線に大形車輌が運行される ために車輌限界が拡幅され、駅が改装される1950年頃までは存在していた)、くらいです。それと、治虫の妻になっ た岡田悦子さんの家族が住んでおられた 屋敷は、治虫の生家とは別の区画にあり、お互いにわりあい近くに位置していたとのこと。岡田家のことはさておき、治 虫の生家の跡を、今探索することは恐ら く不可能でしょうが、悦子さんの方に何か資料が残されているかも知れません。近くにあったお寺というのは、今でもそ の名が知られる“萩の寺”で、この寺で 読経の際に鳴らされる木魚のポクポク音が、よく聞こえたそうです。治虫にはその音が妖怪じみて聞こえて、あまり好き ではなかった一方で、怪談的な物語やロ マンの資料にもなったことは想像に難くありません。 (手塚浩氏の 手紙より)
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浩氏の手紙をもとに、私は岡町を訪れ
てみた。曽根
駅から歩くこと5分ほど。“えんめい橋”を渡り(橋といってもその下は公園になっている)、少し歩いたところに萩の
寺が見えてきた。
この東光院は天平7年(735年) 行基によって創建 されたといわれる寺院で、新西国第十二番霊場として知られている。毎年秋には3000株もの萩の花が参拝者の目 を楽しませているとのこと。また正岡子規の 「ほろほろと石似こぼれぬ萩の露」の句碑があることや孫文が逗留していたことでも知られている。 |
萩の寺周辺は、現在ではすっかり宅地
開発され、マ
ンションが立ち並んでおり、昔の手塚邸がどこにあったのやら、探してもさっぱりわからない。ただ、この辺りが手塚の
故郷であったことはまごうことなき事実 である。
ところで、出生地について研究して いるうちに気付い たのだが、萩の寺周辺にあった家というのは、実は2軒目の家で、手塚が生まれた家はここから少し離れた別の場所 であることがわかってきた。その出生地に関 して唯一の手がかりが、母親の文子さんが何度も語っていたという「あいおいちょう」という言葉である。それにつ いて、手塚自身が過去に講演会で語っていた ことがわかった。以下は、1988年、豊中市立第三中学校で行われた講演会の冒頭部分である。 |
校長先生の大森先生と僕は、長い間のク
ラスメイトで
あり親友でした。豊中は僕にとって懐かしい町です。なぜかというと僕は豊中で生まれたんです。知らないでしょう?豊
中の岡町ってとこで生まれたんです。
で、3歳まで岡町に住んでまして、3歳から6歳まで曽根に住んでました。曽根の萩の寺っていうお寺があってその裏に
住んでました。豊中(岡町)は「相生通
り」ってとこに住んでたんだけど、今はないですね。ちょっと探してもよくわからないですね。とにかく、学校へ行く前
は豊中が故郷だったんです。それと、僕
の奥さん(悦子夫人)も豊中出身。これは梅花(学園)です。だから僕は、君たちの、いわば親戚みたいなもんです。
(手塚治虫氏 講演より 1988年10月31日 豊中市立第三中学校にて)
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ちなみに「3歳から6歳まで曽根に住
んでいまし
た」と手塚は語っているが、本当は2歳から5歳まで、が正しいと思われる。これは手塚が生前、2歳ほど歳を偽ってい
たために起こる計算違いであろう。手塚
が年齢を偽っていた理由は、あまりに若くデビューした(17歳の時『マアちゃんの日記帳』でデビュー)ため、周りの
マンガ家集団から子供扱いされたくない ので、2歳ほどさばを読んで自称していたと言われている。
この講演の冒頭に登場する「大森先 生」とは、手塚の 池田附属小学校時代の同級生・大森俊祐氏のことである。1988年豊中第三中学校で行われた手塚の講演会は、当 時校長先生であった大森俊祐氏の依頼による ものであった。その大森氏に、この度縁あって取材をさせていただくことができた。大森氏については次項「池田」 の欄で詳しく書くことにしよう。 話題がそれてしまったが、「あいお
いちょう」および
「相生通り」については、ご実弟の浩氏、ご実妹の美奈子氏からも同じような情報を寄せていただいた。
治虫の出生地であったと言われる豊中 市岡町。ここで治 虫が生まれて2年ほどしてから曽根に移った(そこで浩が生まれた)ということになっていますが、生まれ育ったの は岡町のどの辺りなのか。唯一の記憶で母親 が折に触れて口にしていた「あいおいちょう」。これがただ一つの手がかりですが、調べたところでは過去も現在も 豊中周辺に「あいおいちょう」と称する町名 は存在しません。ところが昭和の初期の古き時代「相生通り」と称した区画があってそれは当時の(現代も)阪急電 鉄の岡町駅の西側(宝塚方面に向かって左手 側)にあったそうです。これは現在70代の年配の人でも実際にその地に居住した方々以外は殆ど記憶に無いような 地名だとか。豊中市の資料を調べれば確認可 能だと思いますが、当然区画整理もされていますから現時点でズバリその場所を特定する事は或いは不可能かもしれ ませんね。 (手塚浩氏の 手紙より)
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教会そっくりの豊中カトリック教会 写真提供・木村勝氏 |
余談になるが、ここ岡町のすぐ隣駅の 豊中が、なん と『スリル博士』に登場している、という情報を岡町に住んでいらっしゃる木村勝氏から教えていただいた。その場所は 豊中駅に近い場所にある豊中カトリック 教会である。(講談社手塚治虫漫画全集『スリル博士』P.226の教会に酷似している。)『スリル博士』が描かれた 1959年はちょうど手塚が結婚した年 であり、岡田悦子さん(のちの手塚悦子夫人)が岡町に住んでいらっしゃったことから考えても手塚が豊中を訪れる機会 が多かったのではないだろうか。 |