手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

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(手塚ファンマガジンvol.186掲載)
第15回 六稜トークリレー
 
 手塚先生の母校・北野高校でおこなわれ た岩倉哲也先生の講演 「手塚治虫は六陵人!?無視できない手塚治虫史のウソ」に参加して参りました。
 
 受付でレジュメと一緒に配布されたのが このイラスト入りカー ド。アトムが北野の校章(六稜の星)入りの旗をかついでいます。ここがポイント。本来は「六稜」が 正しいのです。ところが手塚先生はどの文献でもことごと く「六陵」と書いている!北野中学時代に結成した「六陵昆蟲研究会」も「六陵」。わざとそう書いた のか単なる間違いなのか、今でも真相は藪の中なのです が…このような「間違い」が実は手塚治虫史にはたくさん隠されている、その様々な間違いを検証しな がら、もう一度手塚治虫像を見つめなおそうというのが今 回の講演のテーマだったのでした。


 手塚治虫史に間違いや誤解が多い理由の ひとつは、手塚先生の 話にはリップサービスが多いこと。手塚先生は相手を喜ばせるために話をおもしろおかしく語ります。 そのフィクションの積み重ねがいわゆる「手塚伝説」を形 成している事実は否めません。有名なところでは「生前年齢を2歳偽っていた」「本当はいじめられっ 子ではなかった」などがあげられます。
 

▲アトムが六稜の旗をか ついでいるイラスト。 ここでも「陵」の字に。


▲北野高校では手塚 先生の中学時代のデッサン が「図書館利用の手引き」の表紙になっています。

 もうひとつは、その作品の膨大さゆ えに検証がなかなか追いつ かないこと。つまり一冊の 研究書の中の小さなミスが検証されないまま、定説にすらなってしまう可能性があるわけです。そ の例として今回取り上げられたのが『ブラック・ジャック』の 開始時期について。『B・J』のスタートは手塚史では1973年11月号になっています。この 時期はちょうど虫プロの倒産期と重なります。手塚先生はその どん底の中から這い上がって不死鳥のごとく復活していったというのが定説。ところが実は雑誌の 発行は標記の月よりひと月早いのです。だから実際に『B・ J』が始まったのは10月19日。決してどん底の時期に始まったのが『B・J』ではないし、手 塚先生自身が「これが最後の作品」とは思っていなかっただろ うと…。いやいや、北野にはすごいファンの方がいらっしゃるんですね。ちなみに連載開始の10 日前の10月9日、手塚先生は北野高校創立百周年記念講演に 出席されています。
 
 岩倉先生はこうもおっしゃっていました。「私 が子供の頃はいつか手塚漫 画を全部読める と思っていました。ところが全部読むことがなんと難しいことか」これはファンの皆さん、手塚漫画を 読めば読むほど感じることでしょうね。そして、そのあく なき追及が今も生きき続けている手塚漫画の魅力なんだろうな、と思った講演だったのでした。
 


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