手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

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(手塚ファンマガジ ンvol.173掲載)
第2回 御殿山のクス ノキ

 宝塚駅から歩くこと10分あまり。ゆるやかな坂をのぼると歌劇場方面の華やかさとはうって変わって、 の どかな景色が広がります。『アドルフに告ぐ』や『モ ンモン山が泣いてるよ』の舞台として描かれているように、ここ御殿山は手塚先生にとってよほど想いいれ が深い場所だったのでしょう。現在では宅地開発が進 み60年前とはすっかり様変わりしています。しかし、閑静な住宅街は今でも先生の少年の日々を思い起こすのに十分なほど良い場所でしょう。御殿山は、すな わち手塚ワールドの原点なのです。

 手塚先生が約20年間暮らした家は、今はもうありませんが、少年時代毎日見上げてきたクスノキは今も 健 在です。 このクスノキは『新聊斎志異・女郎蜘蛛』に登場していることで有名。先生の弟・浩さんによるとこのクス ノキ以外にも、実は往時を偲ぶことができる樹木がい くつか残っているそうです。

 
 当時、その庭には多くの樹木が移植されていましたが、例の大 きなクスノキ以外で、今でも当時のまま何本か残されているのが確認できました。浩としては大変懐かしく 思われたので、それらを記録しておきますと、道路側 にモミノキが1本、奥の方の隣家との境界近くにクスノキが1本、アラカシが2〜3本、位置的には昔のま ま残されています。私達が豊中から越してきた時に既 に大きく成長していた樹木ですから(門寄りのクスノキは当然さらに老樹)、これらは今では樹齢で言うと 80年以上でしょう。治虫が生きていたとしても、そ れよりもっと多くの年齢を刻んでいることになります。

 なお、「手塚邸」というの はちょっとはれがまし く、終戦前後 は門も壊れかけていて、右側の門柱に付けられた立派な表札だけが空しかった…。この門柱にある表札は 「手塚寓」と書かれていて、よくひと様から「手塚萬 (マン)」と誤って呼ばれたものでした。ですから、治虫や浩の祖父にあたる手塚太郎は、あくまでこの家 は「手塚の寓居(仮住まい)に過ぎない貧家」として 謙遜したい心境だったのでしょう。

(手塚浩氏の手紙より)
 

番号は「昆虫手帳」での呼び名。

@手塚邸
A瓢箪池(正式名:下の池)
B釣り池(正式名:上の池・現 御殿山公園)
C摺鉢池
D三角池
E蜻蛉池
F国鉄北の池
G猫神社(正式名:千吉稲荷)
H蛇神社I底無池

CDEFIは現存せず。

※この地図は記念館のジオラマと、小野耕世氏著『手塚治虫 マンガの宇宙へ旅立つ』を参考に作成致しました。

※「昆虫手帳」…手塚先生が中学時代に宝塚や箕面などで採集した昆虫の記録。




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