手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

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(手塚ファンマガジンvol.188掲載)
第17回 朝日会館
 
 手塚先生が生涯追い求めた夢・アニメー ション。その原点は幼 少期に触れたディズニーなど海外の漫画映画だったというのはあまりにも有名です。その漫画映画との 出会いを手塚先生は自伝『ぼくはマンガ家』でこう語って います。
 
 大阪の朝日会館で、毎年正月に漫画映画大会をやる。それを母に連れられて正月三日に観に行くの が、わが家の恒例であった。ポパイやベティ・ブープものと 一緒に当時まだめずらしかったディズニーのカラー漫画ものをやっていた。
 
 大阪朝日会館―この幻の建物について、私は一昨年出版された『なつかしの大阪朝日会館 加納正良 のコレクションより』(LEVEL刊))によって知るこ とができたのです。本書によると、朝日会館は大正15年に開館し昭和37年には閉館。エジプト式を 基調にしたデザインで、金縁の窓に新聞の印刷インクを 塗った(!)黒い建物。常に内外の一流の音楽、演劇、映画が上演され、大阪の近代文化の中心であっ たと。周辺には朝日ビル、中之島中央公会堂、ガスビル、 ダイビルなどの近代建築が数多く現存することを思うと、ここが大阪の一大文化ゾーンだったことも頷 けます。ちなみに手塚先生の通っていた大阪大学はここか ら約400メートルのところにありました。

 ただ、手塚先生自身は朝日会館 の建物についてあまり印象 に残 らなかったのでしょうか。エピソード としてあげているのは、次のようなことでした。ディズニーの漫画映画を観に大阪駅からタクシーに 乗って朝日会館へ。到着したものの、なんと母親の文子さん が札入れを忘れ、タクシーの運転手に「一円にまけなさいよ。お正月だからいいじゃないの、ね、運 ちゃん」と。旧式な軍人の家庭に育った母の意外な言葉遣い が幼な心に印象的だったと語っています。それにしても財布を忘れた文子さんはどうやって朝日会館で お金を払って映画を観たのだろう…という疑問がわいてし まうのですが(笑)。

 朝日会館が姿を消したのち、その地 には朝日新聞ビルが建てら れました。隣接する朝日ビルディングを「く」の字状に囲うように建っています。そして、朝日 会館の演劇事業はのちにフェスティバルホールへと引き継がれました。
 
 ところでこの朝日会館の東隣りにあったのが現存する朝日ビルディングです。昭和初期のモダン 建築としても有名。内部は大幅に改装されているようですが、 外観はほぼ当時のままです。当時は喫茶室や高級レストラン「アラスカ」があり、手塚家もここで 食事をした後に映画を観に行ったとのこと。谷崎潤一郎の『細 雪』にも登場する由緒正しき店だそうです。そのアラスカは現在朝日新聞ビルの13階にて営業 中。手塚先生も食事をしたアラスカ…ということで店の前まで 行ったのですが、とてもお手ごろとはいえない値段に、私はそそくさと立ち去ってしまったのでし た(笑)。

▲現存する昭和6年 竣工の朝日ビルディング
右隣りに現在建っているのは朝日新聞ビルで、この位置に朝日会館が存在した。
写真左端に映っているのはフェスティバルホール。

 


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