手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

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(手塚ファンマガジンvol.193掲載)
第22回 『アドルフに告ぐ』を訪ねて
 
 海と山に挟まれた港町・神戸。『アドル フに告ぐ』の舞台 となった神戸には、明治〜昭和初期に建てられたレトロ建築が数多く残っています。その北野異人館街の中にカ ウフマン邸のモデルとなった「風見鶏の館」(旧トーマス邸)があります。

 三宮駅から徒歩20分。風見鶏がまわる赤レンガの洋館は、北野異人館のシンボル的存在です。明治42年築 で現在では重要文化財に指定されています。家の 主がドイツ人だったこともカウフマン邸のモデルになったことと関連があるのでしょうか。もうひとつモデルと なったのが、隣にある萌黄の館(旧シャープ邸) です。こちらも明治36年築の重要文化財。幾何学模様の窓で囲まれた広いベランダからは神戸港まで見渡せま す。このベランダはアドルフが父親のカウフマン に叱られるシーンそのままです。




風見鶏の館

▲萌黄の館
 ちなみに、手塚先生が宝塚に住んで いた頃、家の近くにド イツ人の屋敷があり、その住人の名が「カウフマン」だったそうです。手塚先生は『アドルフに告ぐ』の後 書きで「なんの気なく主人公の名に拝借した」と語っ ています。

 ところで11月3日、手塚治虫記念館で行われた 夏目房之介氏の講演に 行ってきたのですが、そこで興味深い話を聞きました。「父・手塚粲氏は戦前、写真倶 楽部に所属していた。撮影に同行していた手塚は神戸のユダヤ人教会を見ていたのではないか。それがのち の『アドルフに告ぐ』に影響したのでは。」

 この話が気になり、家に帰ってひも といたのが月刊誌『大阪人』2002年10月号(大阪都市協会発行)の特集でした。本誌によると、戦前 の大阪・ 心斎橋 に「丹平写真倶楽部」というアマチュア写真家集団があり、手塚粲氏はそのメンバーだったそうです。 1941年3月16日、手塚粲氏は、丹平写真倶楽部代表 の安井仲治氏らとともに神戸へ向かいました。目的地は三宮の山本通にある神戸在住ユダヤ人移民事務所。 リトアニア経由で神戸へ亡命してきたユダヤ人たちを 撮影するためであったといいます。その時の写真は同年5月に大阪朝日会館(連載第17回参照) でおこなわれた「流氓ユダヤ」と題された展覧会で発表された のでした。また本誌には、その時父に同行していた手塚治虫少年の姿が写っているではありませんか! (P.44)治虫少年は、確かにそのとき亡命ユダヤ人を 見ていたのです。この、12歳の時の記憶が晩年の『アドルフに告ぐ』のもとになったとすれば、確かにす ごい記憶力ですね!

■『大阪人』2002年10月号には先述の手塚粲氏のことを書いた菅谷富夫氏の記事のほか、手塚眞氏と 菅谷氏の対談記事も掲載されています。未読の方は 是非。


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