手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

         10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
(手塚ファンマ ガジンvol.177掲載)
第6回 宝塚昆虫 館
    
 旧宝塚ファミリーランド (当時の宝塚新温泉)の敷 地内にあった 宝塚昆虫館に、手塚先生は少年の頃足しげく通っていました。当時、学芸員をしていた福貴正三 さんのところに毎日のように昆虫の話を聞きに行ったといいます。その福貴さんに、幸運にもお会いす る機会に恵まれました。突然の訪問にもかかわらず、福貴 さんは気さくに応じて下さり貴重な資料の数々を見せて下さいました。その中に、手塚先生が少年時代 に描かれた昆虫の水彩画がありました。「日本産ヲサムシ 図録(図…手塚治蟲)」と筆で記された和紙に包まれていたのは9枚にわたる昆虫の精密画。計72 匹。写真はこの絵の中の一枚。先生のペンネームの由来と なったオサムシ科のマイマイカブリです。メガネをかけたような顔、肉食であること、そして夜行性。 それが自分に似ているという理由で手塚先生は自分のペン ネームを「治虫」と書くようになったとのこと。ちなみに当時、手塚先生本人は“治虫”をペンネーム とは言わず、「雅号」と呼んでいたそうです。

 
 
 その昆虫館に関して、弟・手塚浩さ んは次のようなエピ ソードを語って くださいました。

 治虫が小学6年の頃、 宝塚昆虫館で蝶の標本コン クールがあり ました。治虫は 特製の標本箱に蝶を放射状にキレイに並べて出品。絶対に一等賞を取ると意気込んでいたのに、結果は 二等賞。何故二等だったかというと、一等を勝ち取った子 は蝶を種別に分類して整列したものであったことに対し、治虫の標本はその意味ではゴチャ混ぜだった ということ。そういう並べ方が学術的でないことは、治虫 は百も承知だったけれど、それには動機があったのです。当時宝塚ホテルのロビーに特大の蝶額が飾ら れていて、珍しい蝶の標本が色調、斑紋、形の大小などを バランスしてびっしりと並べられていました。ランダムなレイアウトが夢を誘い、それは僕たち兄弟の 垂涎の的。治虫があえてゴチャ混ぜ的に並べたのは、その 夢を自分なりに再現してみたいという潜在意識があったのではないでしょうか。

(手塚浩氏の手紙より)
 
 
 また、昆虫館に関する貴 重な資料を手塚浩さんが所 有されていま した。昆虫館で定期的に発行していた「宝塚昆虫館報」。これに手塚先生は自分で描いた蝶4匹 の精密画や目次を書き足してハードカバーで装丁し、一冊の私製本に仕上げました。手塚浩さんはこの 昆虫館報を昨年8月、手塚治虫記念館に寄贈。「少年・手 塚治虫の遊び展」で一般公開されました。

 館報は各号の発行日順ではなく、昆虫の種類やテーマ別に分類し、さらに綴じ代以外の部分をひと回 り小さくカットして装丁されています。その際使用したの が、父・手塚粲さんが大事にしていた写真の印画紙専用のカッター。あまりに酷使したために使い物に ならなくなってしまいました。戦後,引き上げてきた手塚 粲さんはそれを知って、烈火の如く怒るというよりもすごく落ち込んでいたそうです。


掲載の文章、写真、 画像など の無断転載、加工しての使用などは一切禁止いたします。引用等される場合、必ずご一報下さいます様お願いいたします。
inserted by FC2 system