手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―

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(手塚ファンマガジンvol.192掲載)
第21回 『紙の砦』の風景を歩く

 
「中津ー 中津ーっ」
 『紙の砦』で大寒鉄郎が慌てて下車した阪急中津駅。阪急の中では最もプラットホームが狭い駅です。大阪の 中心地・梅田がすぐ隣りにあるにもかかわらず、 駅舎は古く通路も狭い。なんとも薄暗い雰囲気。阪急電車が走っている線路の高架下は雑然と町工場が並んでい ます。その高架下の風景は『どついたれ』で、横 井福次郎に諭された高塚修がふらふらと歩くシーンに似ています。

 1944年9月から終戦までの間、手塚先生は中津にあった大阪石綿に勤労動員されていました。当時、北野 中学4年生でしたが戦争中だったため2学期3学 期は、ほとんど授業が行われていない状態だったといいます。その中津でのエピソードを描いたのが『紙の砦』 と『どついたれ』です。食べるものといえば粗末 な豆入りご飯。仕事の合間をぬってトイレに四コマ漫画を張っていた、などというエピソードも残っています。 (ただし、その真偽は不明)当時の大阪石綿の場 所がどこだったかはわかりませんが、『紙の砦』で岡本京子と話している草原は淀川の川べりでしょう。そして 「南野中学美術部」とはいうまでもなく手塚先生 の母校・北野中学ですね。



メモリアル・ウォール(弾痕 の壁)
 その北野高校(旧北野中学)は淀川 をはさんだ中津よりひ と駅向こうの十三にあります。『ゴッドファーザーの息子』のひとコマ目に描かれているのは阪急十 三駅の駅舎です。北野高校は現在ではすっかり建て変わりましたが、校内には昭和校舎の弾痕壁を移築保存 したメモリアル・ウォールが残されています。北野中 学では1945年6月15日に米軍機の襲来を受けています。肉眼で確認する限りでも20個以上の弾痕跡 が確認できました。『カノン』はこの事件をもとに描 かれた作品ではないでしょうか。このメリアル・ウォールはまさに戦争の生き証人。手塚先生が過ごした北 野中学時代は戦争とともにあり、死を身近に感じなが らの学校生活だったわけです。戦争の愚かしさ、平和の大切さ、命の尊さ…当たり前の、そしてありきたり な言葉にしかなりませんが、やはりそれが手塚先生が 最もマンガで伝えたかったことのように思います。

 余談ですが、北野高校近辺にある淀 川新北野郵便局では、 このような風景印を押してもらうことができます。昭和校舎のメモリアル・ウォールと北野高校の中 では一番新しい六稜会館、毎年一万発の花火があがる淀川に十三大橋。北野高校と十三の歴史がこのシンプ ルなデザインに詰まっている気がします。



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